非連続

文化とは能動的なものというよりは、結果論なのであろう。

意図的に作るというよりは、言い伝えられてフィルターのようにこしだされた現象に対して敬意を表する行為が文化なのかもしれない。

濾し出されたその結果が合っていようと間違っていようと、結果を尊重する考え方が文化的な考え方である気がする。

台湾で食べる松坂牛が日本で食べる松坂牛の4-5倍しようとも、海を渡りここまで来たことに敬意を評し、価値を与え、対価を支払うことが文化的な行為であり、

意外と人々はその非経済的な行為に愛着を持っているのかもしれない。

イギリスで買うジョンロブが日本で買うジョンロブの3分の1の価格だとしても、わざわざ飛行機に乗ってイギリスまで買いに行くのは、野暮だろう。

非連続で非線形な物理の世界に対して人間が対抗できる最後の悪あがきが文化というものなのかもしれない。

それは一瞬の人生のなかで、顔も名前も知らない誰かのために、意味もわからないメッセージを残すかのような行為であり、誰も報われない共同幻想なのかもしれない。

死への恐怖と生への執着がそれを作る。

ただし体はそれを破壊しようとする。

この相反する力の間で、文化が残ることを止めることができない。

日本で飲むことができるシャトーワインが仮にフランスで飲むことができるシャトーワインと味が異なったとしても、

飲んだその時の場が和んだのであれば、それは真実であり、それをなじるのは揚げ足取りであろう。

海を渡り、大陸を渡り、遠いところに行った時、それが別のものに変わっていたとしても、逆説的にアイデンティティは強化されている可能性がある気がしてならない。

他国において自分を知り、他人を演じることで自分を知り、そして他のものの中に自分を見出す。